1965 年、田畑の広がるのどかな東京の下町で、土屋鞄のランドセルづくりは始まりました。最初は、自宅の一角に設けられた 11 坪ほどの作業場に、職人は父・土屋國男ただ一人。そこから二人、三人と少しずつ仲間が増えていきました。私の周りには、ミシンの音と革のにおい、ものづくりに実直な職人たちの姿がありました。
1990 年代、バブルが崩壊し、安価な海外製品の影響を受けた日本の鞄業界は、衰退の一途に。まだまだ小さな工房だった土屋鞄も、廃業目前でした。私は、鞄の仕事をするつもりがなく海外にいましたが、窮地の家業を手伝うことに。
入社して、いざ職人の仕事と向き合ってみると「技術はあるのに、食べてはいけない職人たちを何とかしたい」「日本の丁寧なものづくりは、もっと評価されるべきではないのか」私を、そんな思いが突き動かしました。
自分たちの理想とする、上質な鞄をお客様に届けるため、経営経験ゼロからのスタートは、試行錯誤の繰り返しでした。
職人の仕事の価値や、ものの良さ、想いを広く知ってもらうため、最新のデジタルシステムを取り入れた販促活動や製品管理に取り組むなど、時代の先を見据えながら、常に新しいチャレンジを続けてきました。
創業から 50 余年、行動力あるユニークな仲間に恵まれ、土屋鞄は大きくなりました。商品企画から革などの原材料の仕入れ、製造、販促、販売、アフターサービスまで、今ではさまざまな職種の社員が活躍しています。ですが、まだまだこれからです。
日本を代表する鞄メーカーに、そして、メイドインジャパンの品質を世界中の人に伝えるために。トップダウンではなく、ボトムアップで。全力を尽くしてやった取り組みなら失敗しても結構です。思い切った新しい取り組みをどんどん推進してもらいたいと思っています。
これからの土屋鞄を担う、想像力豊かでクリエイティブに働く方が新しい仲間になってくれることを楽しみにしています。
1965 年、田畑の広がるのどかな東京の下町で、土屋鞄のランドセルづくりは始まりました。
最初は、自宅の一角に設けられた 11 坪ほどの作業場に、職人は父・土屋國男ただ一人。
そこから二人、三人と少しずつ仲間が増えていきました。
私の周りには、ミシンの音と革のにおい、ものづくりに実直な職人たちの姿がありました。
1990 年代、バブルが崩壊し、
安価な海外製品の影響を受けた日本の鞄業界は、衰退の一途に。
まだまだ小さな工房だった土屋鞄も、廃業目前でした。
私は、鞄の仕事をするつもりがなく海外にいましたが、
窮地の家業を手伝うことに。
入社して、いざ職人の仕事と向き合ってみると
「技術はあるのに、食べてはいけない職人たちを何とかしたい」
「日本の丁寧なものづくりは、もっと評価されるべきではないのか」
私を、そんな思いが突き動かしました。
自分たちの理想とする、上質な鞄をお客様に届けるため、
経営経験ゼロからのスタートは、試行錯誤の繰り返しでした。
職人の仕事の価値や、ものの良さ、想いを広く知ってもらうため、
最新のデジタルシステムを取り入れた販促活動や製品管理に取り組むなど、
時代の先を見据えながら、常に新しいチャレンジを続けてきました。
創業から 50 余年、行動力あるユニークな仲間に恵まれ、土屋鞄は大きくなりました。
商品企画から革などの原材料の仕入れ、製造、販促、販売、アフターサービスまで、
今ではさまざまな職種の社員が活躍しています。
ですが、まだまだこれからです。
日本を代表する鞄メーカーに、
そして、メイドインジャパンの品質を世界中の人に伝えるために。
トップダウンではなく、ボトムアップで。
全力を尽くしてやった取り組みなら失敗しても結構です。
思い切った新しい取り組みをどんどん推進してもらいたいと思っています。
これからの土屋鞄を担う、想像力豊かでクリエイティブに働く方が
新しい仲間になってくれることを楽しみにしています。